旅先の思い出

ホテルのメモ紙〔8〕

リムロックホテル・バンフ郊外

 バンフ・リムロックホテルのメモ紙がたった1枚残っていた。

 1997年(平成9年)9月8日から9月16日まで9日間カナダ旅行を楽しんだ。

    会社の同期入社有志で作った会の旅行でカナダは念願の地であった。カルガリからバンフに向かう直線の道の彼方にカナディアンロッキーの山々が現われ,威容に感動しつつのバンフ入りであった。当初はバンフ・スプリング・ホテルの宿泊を希望したがリザーブされていたのはリムロックホテルであった。山腹に古城のように聳えるスプリングホテルに憧れたが、ツアーガイド曰く、スプリングホテルは古くて使い勝手も良くない、リムロックの方が館内も新鮮で景色もロケーションも良いですと推奨した。

 残っているのは汚れたメモ紙1枚だけであるが、ネットで検索した写真で思い出がたくさん蘇った。 

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 山の中腹に建てられているモダンなリムロックホテル、ホテルの玄関は反対側でこじんまりとした感じであったが谷側からの外観は素晴らしい。

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   チェックイン後に部屋に入った時の外の景色がとても素晴らしかった。

          この写真と同じ情景が窓外に拡がっていた。

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 旅装を解いた後、背後に聳えるゾルファー山にリフトで登り山頂から360度に拡がるカナディアンロッキーの景観を眺望満喫した。

 リフトで山を下りる時、バンフの街の彼方山腹に控えるスプリング・ホテルの古色蒼然とした姿を遠望した。

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    リムロックホテルから歩いてすぐの所に聳える観光名所ゾルファー山。

 ディナーのメインがアルバータ牛のステーキで大きさと硬さは日本人向きではなかったが、これが海外旅行の醍醐味であると自覚して挑戦した。

 

ホテルのメモ紙

 


 ホテルのメモ紙〔7〕

                              ホテル・シェラトンフィレンツェ 

                            1999年10月 同期会ヨーロッパ旅行

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 平成11年(1999)10月4日から16日まで13日間でヨーロッパ主要観光地を周遊した。同期入社有志で作った26会という名のグループで夫人同伴を原則として海外各地の旅を続けていたが、遂に念願のヨーロッパ中央部諸国への旅行が実現した。  ドイツから始まりイタリア、スイス、フランス、イギリスという順序で春のヨーロッパを満喫した。

 フィレンツェは初めてで期待したどうりの感激を受けたが、泊まったホテルの記憶は全く蘇らない。手許に残ったシェラトンフィレンツェのメモ紙だけが証拠であるが建物のイメージが浮かばず、場所もはっきりしない。市内観光でバスに乗った記憶はないので旧市街に近い所のホテルであったと思っていた。

 花の大聖堂をはじめレオナルド・ダ・ヴィンチダヴィデ像、ミケランジェロラファイエット等の絵画彫刻に魅せられ、ルネサンスの心に触れる貴重な体験に心弾ませ、一日の安らぎをホテルの部屋に求めた筈であるが、残念ながら思い出が浮かばない。

 市中の狭いレストランで食べたパスタランチに舌鼓を打ったのを何時までも記憶に残っているのにホテルの記憶は全く浮かばない。何たる事か。

  そこで現代の武器であるインターネットで検索したら同名のホテルが存在した。但し場所は市の中心部から5キロも離れた郊外に位置しており、シャトルバス利用の案内が載っている。記憶にないもののイメージとは異なっている。ところが表示されている住所と電話番号が私のホテルメモ記載の表示と一致した。これはもう間違いなくこのホテルである。ホテルの外景写真をネットからダウンロードして下に掲載した。

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 アメリカンスタイルの高級ホテルと紹介されている。この写真を眺めても一向にホテルライフの記憶は蘇らない。設備は立派であるがそもそもフィレンツェルネサンス・ムードに溶け込まない近代感覚のホテルであったのだと述懐している。

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            壮大華麗なフィレンツェ大聖堂

 

旅先の思い出

旅先の思い出

ホテルのメモ紙〔6〕

    フォーシーズンズホテル・ベルリン

      2000年(平成12年)6月11日~13日  2泊3日

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 フォーシーズンズ・ホテルは30年振りに訪れたベルリンの思い出深いホテルである。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を本拠地フィルハーモニー・ホールで聴くという年来念願の目的達成のために訪れた。

 ホテルは自分で選んで予約したが期待に背かず立派で落ち着いた雰囲気で満足した。旧東ドイツの中心地ウンター・デン・リンデンから少し南に入った場所でブランデンブルグ門もすぐ近くにあり観光には最適のホテルであった。

 前回訪れた1970年には西ベルリンから地下鉄で東ドイツ側に入り、フリードリッヒシュトラッセ駅で降りてウンターリンデン通りに至り、ブランデンブルグ門を眺めてからアレキサンダー広場まで歩いたが、周辺は廃墟の如く荒廃していた。

 30年経ちベルリンの壁は今はなく街路やビルも整備再建されて正に見違える様相に感慨無量であった。

 当日夜は胸をときめかしながら妻と二人でベルリンフィルの生演奏を満喫した。プログラムはモーツアルト特集で指揮者バレンボイムの弾き振りによるピアノ協奏曲第25番と交響曲第38番の「プラハ」がメインで世界最高のオーケストラに聞き惚れた。

 ホテルのサービスや雰囲気も最高で地の利も良く、旧東ベルリン地区は歩いて回り、遠隔地のシャルロッテンブルグ城をはじめ市内各地の観光名所はバスを利用して3日間のベルリン再訪を楽しんだ。

 メモ紙は薄灰色の化粧紙で格調高く部屋の雰囲気をそのまま伝えている。

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         フォーシーズンズホテル・ベルリンの全景

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                ホテルの玄関にて

 

旅先の思い出

テルのメモ紙〔5〕 ジョリー・ホテル

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このホテルは記憶が蘇らない。

 ネットで調べてみるとJOLLEY・HOTEL が出てくるが、Eの字が入るので同一ではないと思われる。JOLLEY・HOTELは台湾や中国各地に存在する格安のホテルであるが、私が旅した所には見付からない。

 手帳大の小振りなメモ紙で派出ないのでビジネスホテルクラスではないかと思っているが、今のところどうしても思い出せないでいる。

旅先の思い出

 


 

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ホテルのメモ紙〔4〕ホテル・ニッコー・シドニー 

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 4番目に出て来たのはホテル・ニッコー・シドニーのメモ紙であった。

 少し黄色みがかった縦長の上質紙で上部にホテルマーク、下部にサービス文章が添えられている。形状が独特であるので目立つメモ紙であった。

   オーストラリア には早い時期に続けて3回訪れているが、このホテルに泊まったのは最後3回目の1994年6月末から7月初めにかけての旅であった。

 この時は駅前商業連合会主催の団体旅行で私が団長として参加した。総員100名近い大人数でゴールドコーストシドニーを巡る観光旅行であった。ホテルは郊外の静かな場所にあったと記憶しているが、現在はその名前が見当たらない。売却されたのか名前を変えたのか分からないが、既に四半期を過ぎた昔の話である。

 殆ど貸し切りのような状態で3泊ほどしたと思い返しているが、ホテルライフの記憶は蘇らない。気配りの非常に良い補佐役のお陰で無事に団長の職責を終えること出来たのを覚えている。

 この旅行ではシドニーで丸一日フリータイムを設けていた。参加者全員自由に計画を立て各自好みの観光に出掛けたが、私は予ねての念願でキャンベラを訪れた。海軍将校であった 中学校の先輩が太平洋戦争勃発直後に特殊潜航艇でシドニー湾に侵攻し、爆雷攻撃を受け沈没し殉死した。日本では軍神として崇められたが、此の将校の弟が私とクラスメートで卒業後も友人として長く付き合った。

 沈没した特殊潜航艇はその後オーストラリア海軍によって発見されたあと引き上げられてキャンベラの戦争博物館に保存陳列されていると聞いていた。郷土の先輩が若い命を捧げた記念すべき実物潜航艇に会いたい一心で、丁度巡ってきたフリータイムの一日を当てることにした。

 シドニー空港から空路キャンベラに飛び戦争博物館を訪れたが、目当ての特殊潜航艇はかなり離れた別館倉庫に移されていた。タクシーで当該地まで移動したがあいにく倉庫は締まっており呆然立ちすくんだが、裏に廻り呼び掛けたら管理人が出てきたので事情を話したところ、1時間だけ開けて見学を許して呉れた。遥か日本から訪ねてきた海軍将校ゆかりの日本人に対する暖かい思いやりに感謝して太平洋戦争初期の昭和17年初頭における日本海特別攻撃隊の最後の姿と対面した。感動に胸を詰まらせつつ見学し撮影した写真が残っていたので下に掲載した。

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           特殊潜航艇の前で管理人から説明を受ける。

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        切断して保管してある特殊潜航艇と魚雷発射管の断面

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         特殊潜航艇の潜望鏡部分と取り出して陳列された魚雷

 

ホテル・ニッコー・シドニーの白紙のメモ紙が30年前の生々しい思い出を蘇らせた。

 

  

 








                      



 

旅先の思い出

旅先の思い出

ホテルのメモ紙〔3-2〕ラディッソンホテルSAS

     ウィーンのホテルであった。

 前号〔3〕で掲出したラディッソンホテルはやはり記憶違いであった。成田空港近辺での宿泊はマロウド・イン成田というホテルであった事が判明し、続いてラディッソンSASがウィーンで泊まったホテルである事が写真アルバム整理中に判明した。

 2000年6月にドイツ・オーストリア音楽都市巡りでウィーン4泊した時のホテルで思い出が深いのにも関わらずホテル名を忘れてしまっていたのは情けない限りであった。

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 場所地図が裏面に書かれたホテル名刺が見付かったので下に掲出した。旧市街東寄りで国立歌劇場と市民公園を結ぶ三角形の頂点にセント・シュテファン教会があり、ラディッソンホテルは市民公園に面した」閑静な位置に建っていた。

 オペラ鑑賞・市内観光に最適のロケーションで、観光滞在には最適であった。

 4泊したのは途中でハンガリーのブタペストまでの日帰り旅行を計画したためであったが、ところがこの時私の持病腎臓結石が発症して激痛に苦しみ二日間ほど外出できずハンガリー行きを断念した苦い思い出を残している。

そんな経験をしたホテルの名前が思い出せなかった訳でこれから先が思いやられてくる。

    

            

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    ホテルは下の写真のように立派な建物で、ウィーン旧市内のムードに溶け込んだおり此処をベースに旧市街を観光するなど快適なホテルライフを楽しんだ。           

 

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旅先の思い出

旅先の思い出

ホテルのメモ紙〔3〕ラディッソン・ホテル     

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 次に出て来たのが上に掲出したメモ紙で、葉書大の上質紙に細かいマス目が刷り込まれた上品なメモ紙である。ところがホテル名を見ても宿泊した記憶が浮かび上がらずどこのホテルであるのか分からない。Radisson  SASと印刷されているのでスカンジナビア航空に関係するホテルである事は分かるが結び付くような旅行が浮かんで来ない。

 ネットで調べてみたらデンマークの老舗ホテルを元祖にしたアメリカ系のホテルグループという事が分かったが、ホテルマークの下に記されているHOTELS&RESORTSに該当するグループが現在は存在しない。再編されているものと思われるものの海外で泊まった記憶がないので迷っていたら日本の成田空港の近くにもある事が判明した。

 ラディッソン成田で空港の南西、5~6キロの所に立地した国際ホテルであった。それで記憶を辿ったら私は1回だけ前泊して成田から出掛けた事があるので、その時のホテルがラディッソンであった可能性が大である。

 成田からの海外旅行は距離的不便であったが羽田便や関空が開港するまでは度々利用した。たった1度だけであったが、朝の出発に合わせるためにシャトルバス利用のホテル前泊をしたのをこのメモの出現で思い出す事が出来た。

 但し100%正しいという確証はない。メモ紙のスタイルが垢ぬけしており、日本語が何処にも見つからない点に不審も有り、ひょっとした何処か他の国で泊まったホテルであったかも知れないとも思っている。