2020年の秋

近江八景を行く(1)矢橋帰帆・その2

矢橋帰帆が選定された事情考察

 近江八景の内で矢橋帰帆のみが琵琶湖の東岸に位置している。近衛信伊が八景選定に際して帰帆の風景を念頭に対象地を検討した事は想像に難くないところであるが、近江八景が中国伝来の瀟湘八景を模した風景描写である以上、瀟湘八景遠浦帰帆の日本版発見に意を注いだのではないかと思っている。

 近衛信伊はじめ当時の高位公卿たちが中国から伝わった画家牧谿ほかの瀟湘八景画を直接見ていたことは疑う余地がなく、信伊自身は明貿易の拠点であった南薩摩の坊津で二年間過ごす中で防津八景(瀟湘基準)と鹿篭八景を詠んでいることから猶更である。

 牧谿の遠浦帰帆の絵は八景絵巻から分断されているが国の重要文化財として京都国立博物館に所蔵保存されている。

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中国伝来の瀟湘八景・遠浦帰帆圖 牧谿(13世紀中国画家)画京都国立博物館

 上の絵は牧谿が描いた瀟湘八景のうちの遠浦帰帆画であるが、ブログ前号で示した土佐光起の絵(下図・再掲)が牧谿の絵を充分に意識した鄙びた構図の情景描写であることが良く分かる。

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 元々瀟湘八景は中国湖南省洞庭湖に注ぐ河川周辺の鄙びた自然の風景を描いた作品で、上図牧谿の遠浦帰帆も湖畔の静かな湊に帰る帆船と周辺の景色を描いている。
 琵琶湖の美しさを洞庭湖に模して表現することを基本として近江八景を構成する場合に帰帆に該当する湊は何処にすべきかと探したに違いない。
 琵琶湖周辺は水運によって支えられているので船の出入りする港(湊)は湖岸東西南北・大小四方八方に存在する。船着き場を意味する「津」を持った町や村落が湖岸には多く点在する。特に街道出口が琵琶湖に接して舟運の起点となる町・村落は北岸では敦賀湾に通じる七里半街道の海津、若狭湾に通じる九里半街道の木津・今津があり、南湖岸には草津があって東海道中山道を大津と結んでいる。他にも粟津をはじめ石山・瀬田川沿いにも多くの船着き場があり、それぞれ平津・稲津・黒津などの地名が付けられていて一帯は帆影が絶えない地域であった。

  その中で近衛信伊が自らが一望出来る景観として八景を選定すると仮定すれば、対象地域は近江の古都大津を基点中心とした琵琶湖南湖両岸の風景に絞り込まれてくるのが自然の流れである。 

 ❝帰帆❞候補として真っ先に浮かぶのは大津の港である。大津は豊臣秀吉大坂城を築いて以来琵琶湖水運の拠点としての地位が確立され、物資の一大集積地として港が整備されていた。但しこの事は上に掲示した牧谿の遠浦帰帆の如く、自然色豊かな水辺の船着き場に帰帆する景観画とは相容れぬ情景であることは明らかである事から、拠点である大津からも一望出来る対岸草津外港の矢橋湊の鄙びた情景が帰帆画の対象となったではないかと考えられる。

 矢橋帰帆の位置  

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矢橋帰帆の跡地探しには少なからず苦労した。矢橋は現在の滋賀県草津市の琵琶湖湖岸に位置しており、その昔は草津宿の渡船場であった。草津宿東海道53次の52  番目の宿場 町であるとともに中山道69次の第62番の宿場町として両街道が交差合流する交通の大拠点であった。草津の次の宿場は大津であるが、人馬は兎も角として荷駄物流は矢橋の湊から水路大津港に向かうのが時間的・労力的に極めて便利であった。矢橋の湊跡を示す石燈籠が矢橋帰帆公園に残されており、道路際の公園敷地内には矢橋帰帆の標識説明版が建てられている。

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矢橋帰帆の位置地図、左・琵琶湖南端部右側、右・草津市矢橋地区で港跡は中央右の波止場
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 右側、矢橋帰帆公園地区と現在の波止場 左側、道路わき公園内に建つ矢橋帰帆標識版

 上の写真道路は琵琶湖の湖岸道路(539号線)と東岸26号線の中間を走る片側二車線の市道で、南北は帰帆北橋と帰帆南端で結ばれた内陸彎曲線である。道路途中に右側公園内に矢橋帰帆標識版が建てられているが、見過ごしがちである。

  矢橋公園前の道路から矢橋大橋を経て対岸の比叡山方向を望むf:id:karisato88:20210131171215j:plain

以下次号 矢橋帰帆の跡地今昔