2020年の秋

近江八景を行く(1)矢橋帰帆・その3

跡地今昔

 2020年11月28日(土)午後2時、矢橋帰帆跡地を訪問した。

 市道脇矢橋公園に近江八景・矢橋帰帆の標識板を見付け、大回りして集落内の道を辿り公園外周地区に到着した。下の写真が湖岸の道路に向かって建てられている標識板である。地元の草津市が昭和61年(1986年)に建てた案内標識板で既に35年を経過しているが絵・文とも経年劣化はなく(定期的に補修が施されていると思われ)記載内容は明瞭である。盤面一杯に描かれているのは歌川広重による近江八景・矢橋帰帆画で原画は既に掲載した栄久版とは別の作品で、辻安・彫庄治の落款がある。構図的にはより広範で中央に船待ちをする矢橋の波止場を据え、多くの帆船の浮かぶ琵琶湖を前景としながら対岸の比良山から石山に至る堅田、唐崎、三井、粟津、瀬田の各景観を取り込んた近江八景全景の眺望描写となっている。
 因みに画中旅人の中心に常夜灯が見えるが横に立つ樹木の先の山が三井寺でその右の山に比良山の名前が付されており、同様に左端の山が石山でその下に瀬田の唐橋が描かれており、唐崎の場所には名松の図柄が描き込まれている。

 標識板の下部には矢橋湊の歴史と共に昭和57年(1982年)~昭和58年(1983年)の発掘調査で発見された石突堤の規模や用途などが詳しく説明されている。

 周辺は静寂で訪れる観光客の姿も見付からなかったが、近江八景の跡地訪問の中では一番に実り多き場所であったと思っている。

 

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 草津市矢橋にある近江八景・矢橋帰帆跡地標識板2020年11月28日(土)写す

 

下左の写真は矢橋公園内の散策路から撮った公園標識と案内板と背景の様子である。

 ひっそりとした湖岸の公園で背後の矢橋集落に溶け込むように存在しており、目的を以って訪れない限りは見逃してしまうような規模と情景である。右側の写真は大津市歴史博物館発行・企画展「近江八景」に収録されている明治・大正時代の近江八景・矢橋帰帆の絵葉書で、当時の波止場の様子が収められている。現状の矢橋公園との位置関係は不明であるが、当時は今より湖岸が少し内陸に引き下がっていたのではないかと思われる。

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 矢橋公園 の周囲を一周して遺構らしき石畳みを見付け近付くと、木立に添って建つ常夜灯が眼に入って来た。遠くから風景としてカメラに収めて帰って来たが後でいろんな資料を見て気が付いたら矢橋湊の常夜灯であった。側まで行ってよく観察すべきであったと反省したが時すでに遅しで残念であった。それでも写真に収めて来たのは怪我の功名で大きな成果であった。
 下右に掲出した絵がその対象物である。大正6年(1917年)に伊藤深水が描いた「近江八景・矢橋」(大津市歴史博物館所蔵・企画展)で、湊の石突堤に常夜灯が大きく描かれているので位置関係の凡そを類推することが出来ると思っている。

 因みに平凡社日本歴史地名体系25「滋賀県の地名」によれば常夜灯の建立は弘化3年(1846年)で、幕末期の湊は奥行き約90メートル✖幅約65メートルの規模を持ち、街道の延長線上に長さ56メートル✖高さ1・7メートルの石積突堤(1号突堤)を構築し、北側に長さ90メートル(2号突堤)、南側に長さ29メートル(3号突堤)を備えた琵琶湖交通の要衝であった記されている。

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 16世紀から17世紀にかけて成立した頃の近江八景・矢橋帰帆は近衛信伊が詠み、土佐光起や桃田柳栄の大和絵に描かれた自然豊かな水辺の風景であったが、江戸時代に至り東海道中山道を行きかう人馬・物流の隆盛に伴って湊の規模が拡大整備され、やがて近代化と共に水運が廃れ、鉄道が敷かれるとともに帆船の行き交う湖上風景は消え去って、昔の面影に偲ぶのみとなっている。

 矢橋帰帆の跡地を訪れて対岸を眺めつつ近江八景の在りし日の情景に想いを寄せる事が出来たのは幸せであった。