2020年の秋
近江八景を行く(1)矢橋帰帆その4
参考・草津宿と矢橋湊
矢橋帰帆の跡地は現在は草津市に属しているが、嘗ては矢橋(やばせ)村で江戸時代東海道・中山道の合流宿場町草津宿に付随した湊町であった。草津宿とは1里8丁の矢橋街道で結ばれ矢橋湊を中心に町場が形成され承応元年(1652年)には家数248,人数1180を有していた。下の地図は東海道・中山道の宿場町草津と矢橋を挟んで琵琶湖対岸大津に至る当時の街道図である。【注、矢橋湊の西外にある小島(現在の矢橋帰帆島)は1978年~1982年に出来た人工島で江戸時代には存在していない】 矢橋〇印の湖岸位置が矢橋帰帆の跡地である。
上の街道図の通り、草津宿は東海道と中山道の合流地点で東海道の石部宿から直進した琵琶湖湖岸に矢橋の湊が矢橋街道で結ばれていた。
下の絵図は江戸時代の琵琶湖南湖を中心とした鳥瞰図で一部八景の位置が示されている。東海道と中山道の街道筋が描かれており、中央の草津宿から湖岸に出た所に矢橋村が位置しているのが良く分かる。近江八景の「矢橋帰帆」は対岸の大津をはじめ琵琶湖周辺の各湊から帰港する帆船と水辺の情景を描いた詩歌・絵画である。
江戸時代の琵琶湖(南湖)周辺地図と八景の位置・大津歴史博物館展示パネルより
下は何れも草津を描いた広重の絵であるが、場所は矢橋の湊である。
江戸時代を通じて矢橋村(草津宿)が琵琶湖湖上交通の主要な湊であったことがよく示されている。
下は明治32年(1899年)に描かれた近江八景・矢橋帰帆圖である。
近江八景・矢橋帰帆圖 野村文峯画 滋賀県立近代美術館蔵
矢橋帰帆は近江八景の中では風光明媚な景観地として多く描かれている。この絵は湖上から眺めた矢橋湊の帰帆圖で正面に湖岸に聳える三上山の秀麗な姿を描いている。