2020年の秋

近江八景を行く(4)粟津晴嵐  その3

現地訪問 2020年11月28日 午前9時30分~   曇り空

 大津プリンスホテルを午前9時に出発、湖岸道路を途中で降り湖岸遊歩道に出て徒歩で南下し凡そ15分ほどで湖に面して建つ石標を見付けた。写真のようにまだ新しい感じで脇に説明掲示板が添えられていた。

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石碑は下の地図に赤丸を付したほぼ中央の湖岸に面して建てられている。

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 下の地図、赤丸地点が粟津晴嵐の石標のある場所で、大津プリンスホテルから湖岸の遊歩道を歩いて10分ほどの距離である。

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粟津晴嵐の石標脇に建てられている大津市の案内標識板 

実際の場所と当時の松並木と晴嵐の情況が記されている。

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 実際の松並木は石標地点より200mほど西の旧東海道沿いにあったと記されている。

 

 下は江戸時代後期に描かれた粟津晴嵐の絵である。上の標識板の説明がよく表現されている絵で霞に靄った琵琶湖や船の情景と共に松林が発する晴嵐の気運もよく捉えられている。近衛信伊の時代とは年月を経た経過もっ知れないが松林の雰囲気を今に伝える貴重な絵画である。

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 現在の大津市なぎさ公園入口石標と湖岸に植えられている若い松林。 

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2020年の秋

近江八景を行く(4)粟津晴嵐 その2

浮世絵と近代の絵姿

下は歌川広重の浮世絵である。

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歌川広重 近江八景之内(保永堂板)粟津晴嵐 天保5年(1834) 

大津市歴史博物館発売の絵葉書より複写(原本・大津市歴史博物館所蔵) 

 景観の捉え方が素晴らしい。さすがに広重で近江八景の中でも自然の風景が余すところなく取り入れられた傑作である。嵐の予感を感じないのが残念なところであるが、湖岸の松林は雄大晴嵐の気運(立ちのぼる山気)を存分に発揮させながら並木の姿を現代に伝えている。

 

 

 正面に聳えるのは比良山であろうか、巨大な山塊と広い琵琶湖と城下町の街並みが均整の取れた構図で収まっており、岸辺に向かう白帆や小舟の様子に讃として添えられた近衛信伊の結句の心が込められている。蓋し名画である。

 次も歌川広重の浮世絵である。

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歌川広重 近江八景(魚栄板)粟津晴嵐 安政4年(1857) 

大津市歴史博物館発売の絵葉書より複写(原本・大津市歴史博物館所蔵)

 湖岸の松並木を存分に描いた風景画で前作と較べると構図的には単純であるが雄大で風の向きを強調した白帆に嵐を予感させている。お城は膳所城と思われる。比良山に向かって北進する広大な湖面と湖岸を埋め尽くす松林とお城が嵐を待ち受けている。

 

 下の絵は土佐慶琢の描いた粟津晴嵐である。

 

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土佐慶琢 近江八景 粟津晴嵐 江戸時代(18世紀)大津市歴史博物館所蔵

 湖岸の松林に迫る嵐の気運を画面に描き出している。湖面を揺らす波頭と共に風が吹きつける状況に焦点が絞られた粟津晴嵐である。近衛信伊の歌心や周辺の景観とは一線を画した自然現象〝晴嵐〟中心の作品で注目する。

近代の風景

下は明治期以降に描かれた作品と絵葉書の写真である。

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野村文挙 粟津晴嵐 明治32年 滋賀県立美術館蔵  近江八景写真絵葉書 粟津晴嵐 明治大正期

双方とも湖岸の松並木が粟津の象徴であった事を物語っており、現在の松林再現計画に結びつくものとして期待している。

 因みに現在〝晴嵐〟とは〝春又は秋の霞、晴天の日に立ち上る山気〟とされている。

2020年の秋

近江八景を行く(4)粟津晴嵐 その1

跡地今昔  2020年11月28日・午前10時頃 粟津晴嵐記念碑訪問 曇り空

 粟津は現在の大津市膳所を中心とした琵琶湖西岸の一帯で広い地域に跨っており近衛信伊が粟津晴嵐として詠んだ場所を特定することは難しい。古来琵琶湖南部地区の交通の要衝であり、史跡も多く歌枕としても有名で、また木曽義仲の討ち死にした所をとして義仲寺がある事でも知られている。近江八景誕生当時は松原が続く湖岸地帯で景観が優れていたと云われている。現在はJR粟津駅があり湖岸沿って一帯には〈晴嵐〉という町名が付けられ近江八景の地として昔を偲んでいる。市街地の開発に伴う湖岸の整備が進められており、大津市なぎさ公園の一角に粟津晴嵐の石標が建てられ松の若木が植えられて晴嵐の地復活が図られている。

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現在〈粟津晴嵐〉の石標が建てられている〝なぎさ公園〟からの景観

 なぎさ公園は湖岸総延長4,8Km、総面積30haから成る広大な公園で〝膳所晴嵐の道〟ゾーンには近江八景当時を思わせる松並木が上の写真に見えるように整備され始めている。

  近衛信伊の和歌は嵐の到来で粟津の湖岸に避難する船舶の様子を港の風景と掛け合わせて歌い上げており、粟津が賑やかな場所であることを匂わせている。

下は 土佐光起の描いた近江八景・粟津晴嵐である。

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 土佐光起 近江八景画巻(部分)粟津晴嵐 承応3年~元禄4年(1654~1691)個人蔵

大津市歴史博物館企画展近江八景の写真より引用・以下同じ)

近衛信伊の和歌が添えられている。その積りで絵を眺めると湖岸の樹木が揺れており嵐を避けて漕ぎ寄せる船の動きが描かれている。和歌の心を忠実に描いた作品である。

 

 

 

 次は桃田柳栄の描いた粟津晴嵐である。 

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桃田柳栄  近江八景画巻(部分)粟津晴嵐 貞享元年(1684)大津市歴史博物館所蔵

 画巻の冒頭部分に粟津晴嵐が描かれ近衛信伊の和歌が添えられている。但し粟津の風景は下段に描かれた集落が中心で上部に描かれている山寺と月に情景は石山寺である。

 琵琶湖や船や嵐の情景が描かれていないので和歌の雰囲気が伝わらないが、樹林に囲まれた粟津の景観が大きく描かれている。

 

2020年の秋

近江八景を行く(3)石山秋月 その3

 現地訪問 2020年11月28日 午前11時30分~曇り一時雨

 瀬田の唐橋西詰から川沿いの422号線を下流に進むと右側にすぐ石山寺の山門が現われた。

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   山門前の石山寺石柱           本堂内部の紫式部源氏の間

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 地図上に赤太下線を付した所が石山寺瀬田川に面している。対岸は大津市瀬田地区で岸辺の道路は瀬田唐橋東詰から南下して続いている〈夕照道路〉ある。
 近江八景の内、石山秋月、瀬田夕照、矢橋帰帆、粟津晴嵐の4景(赤下線)が琵琶湖南湖と瀬田川沿いの狭い地域にかたまっている。

 グーグル鳥瞰図では瀬田川最上部に唐橋が見えている。また石山寺の背後には丘陵地が続いているのが良く分かる。

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      石山寺山門          山門内の参道(紅葉が綺麗)

 山門に入ると目の前に真っ直ぐ続く石畳の参道が現われた。何度も来ているがいつも心を洗われるような気分に襲われる場所である。参道だけが平坦でそこから本堂に上がる石の階段が見上げるように待ち構えており、決断を迫られた。10年前までは何とも思わなかったが米壽の誕生日を迎えて足腰は勿論の事、体力・持久力に自信がなくなり、しばし上を見上げて気持ちを整理した。ここまで来たのであるから覚悟して来たはずと自分に言い聞かせて石段に挑戦し、頑張って本堂下の境内広場に辿り着いた。

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   石山寺本堂と小階段        本堂下境内広場と硅灰石塊(左側)

 此処までが精一杯で本堂を前にして登壇を諦め、昔は平気で登った月見堂や鐘楼や多宝塔のある高地は下から見上げるだけで我慢した。境内に露出している硅灰石の塊を観ながら高所に登った同行の娘夫婦の合図に応えながら山頂を眺め、樹間を焦がす仲秋の名月を偲びつつ紫式部源氏物語を回想した。帰りの階段道もかなり急峻であったが杖を使って一歩一歩注意深く下り、参道に至ってほっと一息の石山寺詣を終了した。

 近江八景巡りを思い立って現地を訪れ、これまで気が付かなかった景色や詩情が新たに浮かび上がって来たのが何とも嬉しい事だとの思いを満喫した。

 

 

2020年の秋

近江八景を行く(3)石山秋月 その2

浮世絵と近代の絵姿

 石山秋月は近江八景の中でも抜群の知名度があり、画題として秀でた存在である。それだけに多くの絵画が残されているが、近世以降ではやはり歌川広重の作品が最も親しまれている。

 下は天保5年(1834)に出版された近江八景・石山秋月(保永堂板)である。
峻険な硅灰石の伽藍山を大きく前面に据えた豪快な構図で、上空に浮かぶ名月と月明かりに姿を見せる瀬田川から琵琶湖東岸の遠望は迫力満点である。近江八景の名に相応しい情景であるが、現実には見ることが出来ない創作画で、それがまた浮世絵の楽しい所である。 

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大津市歴史博物館発売絵葉書より複写(原画・大津市歴史博物館所蔵)

 

 次も同じく歌川広重の浮世絵で安政4年(1857)に出版された近江八景・石山秋月(魚栄板)である。構図の基本は同じであるが景観に高さが強調され月が石山の上空に上り詰めている情景が顕著で琵琶湖を望む遠景にも広がりがある。石山寺の描写も細やかで澄んだ夜空に映える伽藍や木立の情景が浮き出ていて美しい。広重の近江八景の中でも際立った作品ではないかと思っている。

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 大津市歴史博物館発売絵葉書より複写(原画・大津市歴史博物館所蔵)

 

  石山寺の頂上には古くから月見亭が建てられている。そこから眺めた実際の光景がびわ湖大津観光協会公益社団法人)発行の「近江八景見聞録」に掲載されているので引用した。

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    石山寺月見亭での〈お月見の宴〉の様子

月見亭の今昔

 寺伝によれば月見亭は後白河上皇(1155~1192)が石山寺行幸された時に建立されたと云われており、幾度かの建て替えを経て現在に至っている。現存する月見亭は昭和4年(1929)の建造で既に90年を超えている。

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 石山寺月見亭(先代) 明治末期ごろの絵葉書より          現在の月見亭

 

多宝塔

 石山寺の山頂部に有り本堂等と共に国宝に指定されている。建造は建久5年(1194)、源頼朝寄贈によるもので日本最古の多宝塔として広く知られてえいる。

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      石山寺の多宝塔(国宝)

 

 下は明治32年(1899)に描かれた野村文挙による近江八景・石山秋月である。紅葉に染まる伽藍、硅灰石を含む石山寺全景と瀬田川・琵琶湖と背後の山々に注ぐ月明かりが冴えており、正に一幅の景観画である。

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野村文挙 近江八景図・石山秋月  滋賀県立近代美術館

2020年の秋

近江八景を行く(3)石山秋月 その1

跡地今昔 2020年11月28日午前11時過ぎ 石山寺を訪問 曇り空

 次の情景は石山秋月である。近江八景では一番南に位置するため最初に並べられる場合も多く、私も従来はこの順に従っていた。今回は東湖岸からのスタートであったので第3景としての登場である。

 近江八景の選定場所の中では三井寺と並んだ歴史的な古刹で、現代に至るも多くの人々が訪れる観光名所である。私も過去数回に亘って訪れているが、近江八景の秋月と結び付けた事はなく、むしろ関心は紫式部源氏物語にあったと云っても過言ではない。琵琶湖の上空に姿を見せる仲秋の名月を題材にする場所を石山寺に選んだ近衛信伊の感性も紫式部の面影に魅かれたのが強かったのではないかと楽しく想像している。 

近江八景・石山秋月の和歌は以下のとおりである。

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          ㊟にほ(鳰)のうみ=琵琶湖のこと

 和歌の解釈を敢えてするまでもないが、うみてるの〈てる〉は湖と月の照り双方に掛けており、〈明石とすま〉は言うまでもなく源氏物語の「明石」の巻「須磨」の巻と海の情景の双方を掛けている。

 なお〈秋月〉は八景の中では最も普遍的な課題であるため、日本で詠われ描かれた八景文献の中では殆ど必携的な課題として登場している。その根源が近衛信伊の石山秋月である。

 後世の画家たちが描いた石山寺と〈月影〉を観ながら、信伊の秋月に近付きたい。 

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土佐光起 近江八景画巻(部分)石山秋月 承応3年~元禄4年(1654~1691)個人蔵 
 (大津市歴史博物館企画展近江八景の写真より引用・以下同じ)

 峻険な石山寺に見えるのは多宝塔と本堂か?近江富士(三上山)と雲間に姿を現した月影が湖面の存在を浮かび上げている。蓋し名画である。

 

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桃田柳栄 近江八景画巻(部分)石山秋月 貞享元年(1684)大津市歴史博物館所蔵

画巻の部分であるため琵琶湖の雰囲気が描かれていないのが淋しい。

 

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吉田元陳 近江八景画巻(部分) 宝暦7年~明和3年(1757~1766)個人蔵 

 

公卿の描いた雅な近江八景絵巻の部分画である。石山寺の上空に現れた仲秋の名月を描いた八景画で、こちらも琵琶湖(にほ鳰)のうみの雰囲気はない。但し実際の情景把握では石山寺から月影を通して琵琶湖を感受することは地形上不可能であったと思われるので、この絵の如くに表現されたものと思っている。

 

 

2020年の秋

近江八景を行く(2)瀬田夕照(せきしょう)その3

跡地今昔 2020年11月28日 午前10時 瀬田唐橋を訪問した。曇り空

 大津市内の湖岸道路を南下し近江大橋西詰から粟津の大津なぎさ公園前を経て国道の東海道を横切り唐橋西詰の交差点に至り、左折して瀬田川の橋の袂にある僅かな空き地に車を止めた。瀬田の唐橋である。場所は県道2号大津能登川長浜線の起点として瀬田川を跨ぐ橋元であるため終始車の量が多く、周辺に駐車出来る公共スペースは全く無い。車の流れにそって通過するしか仕方がないかと思ったが幸いにも中洲にある閉鎖中の画廊の前が空いていた。咄嗟の判断で車を乗り入れ一時停車をしてもらって暫時下車し、唐橋を歩行見学することにした。

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一時停車した場所にあった唐橋由緒版   瀬田唐橋・明治大正期の近江八景絵葉書

 

瀬田唐橋の場所

 下の地図中央、瀬田川の中洲を跨ぐ橋がその昔長橋と呼ばれた瀬田の唐橋である。現在、瀬田川上流側に東海道瀬田川大橋とJR東海道線鉄橋が架けられ、下流側に東海道新幹線名神高速道路が通っている。唐橋はその中間の交通要路に位置している。嘗て唐橋(長橋)が瀬田川渡河の中心地であった事を思うと時代の移り変わりを痛感する。

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現在の唐橋周辺立体図 

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 中洲の木立の上に見える空き地に車を停めて写真を撮った。

現在の瀬田の唐橋

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 西詰中洲の位置から東詰方向を写す。   東詰近くの歩道から瀬田川上流を写す。

 

唐橋東詰に移動、標識と広重の浮世絵案内板を観る。

 現在の唐橋は両側に歩道を伴った上下2車線づつのコンクリート橋で西詰・東詰はそれぞれ交差点で信号が付いている。信号が変わるたびにひっきりなしに自動車が疾走する交通要路で四六時中欄干に佇んで景観を愛でる雰囲気は失せている。まして夕照の情景に出会うのは大変難しいと実感しながら東詰まで歩き、信号待ちした後に下流側の袂に移動した。瀬田川下流に添った道路は夕照道路と名付けられ石山の南まで続いているが、川岸の僅かな空き地に遊歩路があり、景勝地瀬田の唐橋〉の石標が建っていた。

 生憎の雨上がりで写真は派出ないが近江八景瀬田唐橋訪問の記念として下に掲示した。右側の額絵は広重の近江八景・瀬田夕照浮世絵(魚栄版)の写真で橋の袂近くに掲出されていた。

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 唐橋標識から橋と瀬田川上流を望む   歌川広重の浮世絵を掲示した案内板